新潟日報の勝ち、朝日新聞の負け(拷問認識時点)

昨日の新聞を読み返している。作曲家の小林亜星さんが亡くなった記事が大きかったので、カルロスゴーン事件の初公判記事を細かく読まずスルーしていた。

昨日お昼を蕎麦屋さんでとったとき新潟日報を読んで初公判記事の「あること」がとても気になった。

囲み記事『「日本で拷問」信じたが・・』である。読むと「拷問」の認識時点について次のように想像できる。

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マイケル被告が米国にいるときゴーンの妻に夫の逃亡(救出)を依頼された際のやりとりのあれこれで、ゴーンが日本の拘置所で拷問を受けていると思うようになった。

一方、朝日新聞からは、拷問に関する認識の時点をプライベート機で関西空港から離陸し機内でゴーンが箱から出てマイケルと面会した際「拘留中に拷問を受けた」と話したのを聞き「拘置所内で拷問を受けたんだな」と認識した、と解釈できるのである。

 

ささいなことではある、拷問を受けた認識をいつしたかなんて。

新聞二紙を読まなければ気にもならないが、新潟日報を読んでのち朝日新聞を読むとそのわずかに記述の仕方が異なり、結果として「時制の一致」がなく、大きな違和感となった。こうしたちょっとしたこと、ささいなことは刺さったトゲと同じく気になる。

限られたスペースで記述をしなければならぬ条件下で記事を書くので、記事の内容の時間的経緯が読者に誤解されることはある。まさにこの記述が良い例だろう。朝日新聞の記述では他の情報のない読者にとっては、拷問の認識どきは救出したのちゴーンが話したことからその事実があったと認識した、と取れる。

日本語を愛する日本人として拷問の認識の時制をいつにするかは国語の問題である。

正解は、「マイケル被告が米国でゴーンの救出(逃亡)を依頼され、その際のやり取りの中でゴーン(拘束中の夫)が拷問されていると認識した」と考えるのが適当だろう。

【おまけ】

ところで新潟日報の囲み記事の中にゴーンの人柄がうまく表現されている一節がある。この人は感謝の意を表することができないタイプの人ではないでしょうか、心からの感謝もお金で表現できる、お金が代わりをしてくれると思っている。

ウーム、世の中そういう方も大勢いらっしゃるのでしょう、なかなか考えさせられましたなあ。

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