【雑感】新聞のお悔やみ欄

A、今日は12月1日、当(南魚沼)市のお悔やみ記事が載る水曜日。いつもと違い注意してこの欄を眺めた。というのも先週はお悔やみ欄を見つけることができなかったのだ。水曜日に新聞をさりげなく読み、翌日にそういえば昨日のお悔やみ欄を見ないでしまったと、あらためて前日分を取出しお悔やみ欄を探した。三度も四度も隅から隅まで目を通したが見つけられなかった。県内分を地域を分け一週の新聞に掲載するから、固定した曜日を振り替えて掲載するとは考えられない。ならば今回二週間分が載るのではないかと推理したのだった。推理は外れ件数は多くなく、通常スペース(分量)だから一週間分だ。わからない。先週載せるべきお悔やみの情報がどうなったのか。

こうしたケースで自分を納得させる方法は専門家に聞くこと。意外にあっさり解決したりする。機会があれば、地域新聞を発行していた社主に聞いてみようと思う。

B、さて今日掲載された当市のお悔やみの数は九件、なかに知り合いの家族の名がある。ちょっと驚く。

人口が六万人を割る地域で一週間に一度乗るお悔やみの数はだいたい十件から二十件。世間の狭い私自身でもありまだまだ元気世代の仲間だから、この欄に知っている名前を見つけることは稀である。せいぜいが市合併前の旧町範囲で知っている方がある程度。だがしかし稀に発生することをないがしろにしていけないことは人生から学んだ貴重なことのひとつ。目を通すことが必要なのだ。今日のようなことになる。

この方が昔の同僚の奥さんだと知っていた。同僚から、病状や今後の治療方針について以前会ったとき聞いていたので亡くなったことを知り特別の感慨があった。癌ではないが難治性の病気を患っている、専門の治療を施せば五年十年単位の寿命を延ばせるのではないかと(わたしは)素人ながら考える、しかし積極的治療をしないと家族で合意しているという。それを同僚から聞いたときの率直な印象は、「連れ合いの病い、苦しみ、残りの人生に、意外にドライなんだなぁ」というものだった。

察するに経済的負担に問題はない、裕福な家庭なのだ。家庭環境もよく、子供たちは自立し家庭を持ちさらに親思いだ。夫婦仲だって悪くない。けれどその結論に至ったらしい。病いの本人の気持ちを知らないのでその分を引かなければならないが、それにしてもと思う。本人が長生きしたいと思わないのだろうか、世話をしてやろう面倒をみてやろうと思わないのだろうか、そのことはこれまで十分にやりましたということなのだろうか。わからないが、わからなくていい、その家庭その家庭の事情があるのだ。

「連れ合いの病い、苦しみ、残りの人生に、意外にドライなんだなぁ」「医療技術者だったから生命観、人生観に特別なものがあるのかなぁ」「これまで十分面倒をみたってことなのかなぁ」と、わからないことについて考えてみた。

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